母の介護奮闘日記


私の母の介護日記です。毎日の忙しい日々と、要介護認定がなかなか下りないもどかしさの体験談となります。同じように介護をされている方は共感できる部分があったりするのではないでしょうか。祖母が要介護4になるまでと、叔母が亡くなるまでを辿っています。

祖母の妹が独り身の為、一緒に住むことになりました。それが登場人物の静子おばさんです。父は病気で他界。私は嫁いでいるので時々お手伝いには行きますが普段は全て母が行っています。母、祖母、叔母さんの女3人暮らしです。

【登場人物】 

福ちゃん(母50代、17時まで正社員で仕事をしながら介護中→パート勤務に)

春ばーちゃん(福ちゃんの母、初回転倒時91歳、要支援2から要介護認定3~4に至るまで)

静子おばさん(享年85歳、要支援2から要介護3となる、春ちゃんの妹)


90歳を過ぎても陽気なばーちゃんは、デイサービスの若い職員さんにも、ちゃん付けで呼ばれています。

介護の始まりは、春ばーちゃんが自宅の外にて転倒した事でした。
倒れた春ばーちゃんは大声で叫んで、近所の方に救急車を呼んでもらいました。
搬送先の病院で右大腿骨頚部骨折の診断を受け、人口骨頭を入れる手術をしました。

春ばーちゃんは前向きな性格の人。お医者さんや作業療法士の方が驚くほど、リハビリが進みました。

春ばーちゃんは要支援2。15年ほど前に変形性膝関節症の為、人口関節を入れる手術をしています。転倒したら起き上がれない状態ですが、これでも要支援2なんだなと福ちゃんは思っていました。

もともとじっとしていられない性格の春ばーちゃんは、畑で鍬をふるったりしていましたが(福ちゃんは仕事)そこで転んで起き上がれず、大声で隣の人を呼ぶということが何回かありました。
ご近所にも大変ご迷惑なことですが、もし家の中で転倒したら声も届かず、福ちゃんが帰ってくるまで転倒したままの状態だと思ったら怖くなりました。
コンクリートの上で転倒したら、骨がもろい高齢者ならば大腿骨骨折はよくある話で、春ばーちゃんにもその時が来たのでした。

退院近く、春ばーちゃんは歩行器を使ってトイレまではなんとか行ける状態。これからリハビリももっと進むかもしれない。ここだけを見るとせいぜい要介護1くらいの認定しかしてもらえないのだろうか?
福ちゃんは介護度によって受けられる介護サービスに違いがあることを少しは知っていました。

退院日、病院の駐車場から自宅まで車椅子を利用したいが、(病院内では車椅子を借りれる)要支援認定では自宅用の車椅子をレンタルできないということもありました。

車椅子も介護ベッドも要介護2からしかレンタルできません。

この頃、静子おばさんはまだなんとか元気ですが、頑丈な春ばーちゃんと違って虚弱体質な静子おばさんを、福ちゃんはかかりつけの内科や接骨院に送迎したりしています。今までは春ばーちゃんが丈夫だったからよかったけど、これから先仕事をしながら2人の世話ができるのだろうかと福ちゃんは不安になります。

結局春ばーちゃんは1ケ月半で退院。家に帰ってきました。(ちなみに入院費は1割負担で16万でした)
福ちゃんは今まで二階で寝ていましたが同じ部屋に布団を敷きます。→その後隣室へ。
介護用品の会社の方に下から支える手すりと歩行器を持って来てもらいレンタル開始です。

インターネットで頼んでいた介護ベッドが到着。
手動ベッドです。(不便だが安いので)8万円也。
今までの柵のないベッドでは危ないし起床時つかまる事もできない。今日からもう大丈夫。下から支える重い手すりを返却し、介護ベッドに取り付けるタイプの手すりをレンタル
これによってベッドから立ったり座ったりがとても楽になりました。
それにしても頻繁な回数のトイレの付き添い、ズボラな福ちゃんですが、さすがに退院後1週間くらいは夜もあまり眠ることができませんでした。

でもベッドに寝た状態でテレビが観られるよう壁に取り付けたり、福ちゃんは春ばーちゃんが少しでも快適な状態でいられるよう工夫したつもりです。

職場のほうも同僚の協力を得て遅刻、早退、有給もとらせてもらって乗り切ります。幸い退院が年末の半月くらい前だったのと、正月休みも1週間以上ある職場だったので、その間に春ばーちゃんのリハビリが進み、来年からは普通に仕事に行けると福ちゃんは期待をします。

年があけ、春ばーちゃんの通うデイサービスにて介護認定がありました。マニュアル通りの質問をされるので、少しイラっとする福ちゃん。

福ちゃん自身がこんな足の状態ならキッチンにも立たないけれど、春ばーちゃんはやる気があるのでひじきを作る。ただし床はねちゃねちゃだ。

春ばーちゃんは何事にも楽観的。静子おばさんは全てに几帳面。全く真逆な性格だった。静子おばさんは家を汚されるのに腹を立てるが仕方なかった。家の中がそういった争いで暗くなる日もあった。

  • 春ばーちゃんが髪の毛を切りたいということで行きつけの美容院へ。
    バリアフリーでない美容院へ上がる動作も、今までよりうんと不自由だ。
  • 食欲がないと思ったら、頑固な便秘。人生初めてのビニール手袋をつけて肛門に指を突っ込む行為。結局、浣腸で解消。
  • リハビリパンツのみの交換で済む日も、濡れて布団総替えの日もある。歩くときあちこちつかまるのは今までもそうだが、歩くのが以前よりもっと不安になったのでつかまる手すりやクロスはますます汚れていく。

一見すると変わらないようでも、今までとは確実に違っているのに、春ばーちゃんは要支援2のままでした。

福ちゃんはたまたま春ばーちゃんが要支援になった時にバリアフリーにして玄関前をスロープにし手すりも付けていたのですが、これが大変役立った。申請をして18万円の住宅改修の補助金で行っていました。
何か買い替えたり直すたびもうそんなに生きないのに勿体ないと春ばーちゃんは言っていたけれど、とんでもない!! 人生100年時代です

そうしてなんとか日常は過ぎていったある日、また春ばーちゃんがキッチンで椅子に座ろうとして転倒。救急車で搬送され2度目の入院となってしまった。

次は反対の足の大腿骨近位部骨折。人口骨頭を入れ替えてしまう手術とは違い、ヒビだと治りが遅いそうだ。

春ばーちゃんのリハビリが進み、安心してお勝手仕事をさせていた事を後悔する母ちゃん。結果、自分が苦労をすることに。

手術後、見舞いに行くと、もう帰りたい…。と泣く春ばーちゃん。リハビリも辛いらしい。三か月前に片方を手術した病院だということがもうわからなくなっている。福ちゃん、これでは仕事を正社員からパートにするか検討しなければ…。今、仕事を辞めることになったらこれからの生活をどうしよう。福ちゃんも泣きたい。

今回は2ヵ月と少しの間入院で、20万ほどかかった。お金の事も頭をよぎるが、一番困った事は前回の退院時とは違い、ばーちゃんが認知症になったことだった。

退院後、夜間せん妄がひどく、ベッドを下りてつかまりながらどこかへ行こうとする。数歩歩けば転んでしまうのに。ばーちゃんの目はすわっている。毛布のふくらみを見て誰もいないのに「あそこに誰かいる」という。

入院中に飲ませていたという睡眠導入剤を何錠かいただいていた。とにかくまず寝てほしかった。だけどこれが副作用なのではないか?
ゾルデヒム酒石酸塩錠10mgという薬をやめさせたら、せん妄の症状は改善しました。

まだ仕事を続けたい福ちゃんは福祉車両を購入。この車に車椅子ごと乗せてデイサービスに預ければ、デイサービスの送迎を待たずに自分の都合で出勤できる!

仕事は9時から16時のパートに変更して雇用してもらえることになった。どうせなら定年まで働きたいし、今から他の仕事へいった所で誰も雇ってはくれないだろう。

それから次の認定があり、今度はさすがに要介護3をもらえた。

見当識障害で朝と夜の区別も、今日がいつなのかもわからない。夢を見ると現実と混同。話題を変えるようにしているがなかなかしつこい日もある。 徘徊などの症状に比べればまだいいが、何回も同じ話をされるとこちらもイライラしてしまう。
それでも長年通いなれたデイサービスに行きたいと言ってくれる春ばーちゃんのおかげで、ほぼ休みなく出勤することができた。でも夕方になると早く帰らなければと毎日とても焦る日々。介護をしながら仕事をしている人はみな同じ気持ちなのだと思う。

朝、仕事前に春ばーちゃんをデイサービスに送り、次に静子おばさんを整形外科まで送る日もあった。綱渡りのようにしてなんとか仕事を続けている感じだ。

春ばーちゃんが尿路感染症で入院になったこともあった。むしろ入院時は福ちゃんは助かった。やっと楽になれたという感じだったからだ。

静子おばさんはきれい好きで食事はもともと自炊をしてました。
偏食だったし、春ばーちゃんの一食が静子おばさんの一日分というくらい食の細い人だった。体重も30キロ台。要支援2だけは認定してもらう。
よろよろなのに、認定の日に自分で洗濯も食事もなにもかもやっているとプライドで言い張るからそうなるのだ。
でも確かにその時点はまだマシだったかもしれない。

静子おばさんは買い物が大好きで、よく連れていってくれと頼まれていた。やがてスーパーのカートにつかまりやっと歩くほどに段々と弱ってきました。宅配弁当を頼んでもいつも残します。
そのうちスーパーまで行きたいとも言わなくなり、福ちゃんの作ったものやお菓子のようなものが好きなので買ってくるとそれがご飯になったり。

福ちゃんは、春ばーちゃんに手をとられ、静子おばさんが弱っていってもそこまで手をかけてあげることができませんでした。
春ばーちゃん用に電動ベッドのレンタルを開始したので、ばーちゃんが使っていた手動ベッドは静子おばさんに使ってもらうことにしました。 布団からの低い状態からの寝起きもしんどくなってきた静子おばさん。これで少しは楽になるはず。


静子おばさんは神経質な性格のため、楽観的な春ばーちゃんと福ちゃんとはぶつかる事が多かった。でも春ばーちゃんの認知症が入ってからは、静子おばさんの怒りや疑いの対象が福ちゃんのみに向くようになったようだ。
そしてばーちゃんの2回目の退院から1年くらい経った日。

ある日、ちょうど福ちゃんが仕事から家に帰るとお巡りさんが…。

福ちゃんが泥棒だとあちこちに書き殴って置いてある。その盗まれたものは綿棒にシーツ。どうでもいいものばかり。言い返す気も失せ呆れる。

被害妄想からきたものだが、一番近くで介護しているものが妄想対象になってしまう。

警察の方に帰ってもらい、どうしたらいいか考える福ちゃん。
近くの認知症専門の神経内科に連れていく。
精神科で有名なところだとプライドの高い静子おばさんは行ってくれないので、内科で有名なところだからと誤魔化して連れていく。

病院の認知症の質問には至極真っ当に答える静子おばさん。こらこらこら。
認知症テストの間に、別の部屋に呼ばれて先生に被害妄想を訴える福ちゃん。
メマリーOD錠を処方してもらう。認知症を抑える薬らしいがこれで精神が安定して温和な性格になる方が多いらしい。

この先生はたとえ認知症でなくても、これだけ歩行に時間がかかって要支援ということはないですよとおっしゃる。主治医に変更の書類をお願いしては?と言われた。
フォルテオという薬をもらいに →フォルテオについては骨粗しょう症で腰椎骨折」記事参照
通っている整形外科さんが主治医ということになるのだろうが・・・

メマリー錠をもらったが結局飲んでくれない。食道が細いせいもあるのか他の錠剤や粉末すら飲むことも嫌がる。


毎日泥棒といわれるのなら家を出ていくと福ちゃんが言った頃から、静子おばさんはおとなしくなった。(心の中はまだ疑っているんだけど)
お風呂にも自力で入れないのでデイサービスにも仕方なく行くようになったが、それも行かなくなる。いまから思えばもうセルフネグレクト(自己放任)が始まっていて、やがて、入院したい、もう死にたいというようになった。

要介護4になった春ばーちゃんのほうが元気で要支援2の静子おばさんが要介護4のようにだんだん弱っていく。

ケアマネさんからの情報で、近くにすぐ入所できて看取りもしてくれる介護老人保健施設があり、自分で手配できる事を知った福ちゃん。系列のA病院にかかっていれば、何かあればその施設に入所できるらしい。自分でもっとよく勉強していればもっと早く静子おばさんを楽にできたと申し訳なく思う。

9時~16時では回らない仕事の時期があり春ばーちゃんと静子おばさんを3日間ショートステイに預けました。
その時静子おばさんに血尿が出て、ショートステイから連絡がありました。
結果、看取りもしてくれる老健に最終的に入れるA病院で検査をしてもらい病名がつきました。腎盂腎炎で入院です。

これで今要支援2ですか?とここでも言われました。認定員さんには既に来てもらっていたので後はH病院の主治医からの書類のみ。そちらはあきらめて入院したA病院で書いていただきやっと要介護3が出ました。

腎炎の熱が下がってから施設入所となりました。ただすぐまた熱が出るので病院と施設を行ったり来たり。施設よりはほぼ入院をしていました。
退院して再度入所するときには又申込書を書きます。

施設に入る少し前、弱ってきた頃から、静子おばさんはすっかり優しくなりました。後から思うと皆、最後は仏になるということなのだろうか。
病院が食事のほかに何を食べさせてもいいと言ってくれたので、唯一おばさんの好きなうなぎ丼を食べさせた。クリスマスの時には顔を乗り出してケーキを食べてくれた。あまりかまってあげられなかった静子おばさんへのせめてものお詫びでした。

あまり食べられなくなって、もう長くないかもと言われた施設入所三か月後、福ちゃんは静子おばさんの仲の良かった友達を連れていっては顔を見て話してもらった。

その後、老衰でおばさんは亡くなりました。急激に悪化していったという印象です。

春ばーちゃんのほうは相変わらず。自分の妹が亡くなったのを忘れて名前を呼んでみたり。天真爛漫なまだら呆けのばーちゃんです。

頭のほうは衰えて、身体は逆に元気になっていくようです。95歳になりました。
相変わらずデイサービスにほぼ毎日行っています。

現在、祖母の介護は続いていますが、2人同時に仕事をしながら一人で毎日奮闘してきた母は凄いです。介護の辛さは本人にしかわからないので簡単にすごいという言葉で終わらせてはいけませんが、尊敬しています。

私も福ちゃんの介護をする時がくるまでに一番いい環境を見つけれるように心の準備も含め勉強していきたいと思っています。

介護する時がきたらまかせてね!と言えるように。